2011年12月19日月曜日

民法に関するオススメ本

しばらく blog を更新してなかったのですが、いつもの話題がないのでオススメの法律本を列記しておきます。
民法(および民法学習法)に関するオススメ本です。
正直言って若干“異端”な部分はありますが、「ドグマに陥っていない」という点で通説よりも“いい意味で”わかりやすいです。

※どうしてもパンデクテンシステムで、という方は末尾のリストを参照のこと (2012年11月2日)

加賀山 茂・著
『現代民法 学習法入門』 【現代民法シリーズ1】
信山社 (2007/12)

加賀山 茂・著
『契約法講義』
日本評論社 (2007/11)

加賀山 茂・著
『現代民法 担保法』 【現代民法シリーズ4】
信山社 (2009/12/25)

加賀山 茂・著
『債権担保法講義』
日本評論社 (2011/9/13)

※以下の本は、加賀山本に紹介・引用されている本です。

【関連本】
太田 勝造・著
『法律』
(社会科学の理論とモデル7)
東京大学出版会 (2000/11)

Thomas Kuhn・著, 中山 茂・翻訳
『科学革命の構造』

みすず書房 (1971/01)  

末弘 厳太郎・著, 川島 武宜・編集
『嘘の効用 (冨山房百科文庫)
冨山房 (1988/6/15)

末弘 厳太郎・著, 川島 武宜・編集
『嘘の効用 (冨山房百科文庫)
冨山房 (1994/6/15)


※パンデクテンなオススメ本 (全部、弘文堂です(苦笑))

四宮 和夫, 能見 善久・著
『民法総則  [第8版]』 (法律学講座双書)

松尾 弘, 古積 健三郎・著
『物権・担保物権法  [第2版]』 (弘文堂NOMIKA 2)

野澤 正充, 渡辺 達徳・著
『債権総論』 (弘文堂NOMIKA 3)

笠井 修, 片山 直也・著
『債権各論Ⅰ ―契約・事務管理・不当利得』 (弘文堂NOMIKA 4-1)

前田 陽一・著
『債権各論Ⅱ ―不法行為法  [第2版]』 (弘文堂NOMIKA 4-2)

犬伏 由子, 石井 美智子, 常岡 史子, 松尾 知子・著
『親族・相続法』 (弘文堂NOMIKA 5) ※2012年11月20日発売

2011年11月24日木曜日

学校の勉強はホントに社会に出て役に立たないのか? (続)

以前4ヶ月ほど前に「学校の勉強はホントに社会に出て役に立たないのか?」を書いたのですが、
加賀山 茂・著『契約法講義』 http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4535515409/
の序章の中に
「人間の記憶のメカニズムとそれに適合した学習方法」
という関連する興味深い文章があったので、それをおすすめしたい。
認知心理学もしくは学習心理学の中で述べられている「短期記憶」と「長期記憶」による記憶のメカニズムと知識の構造化の話です。

「学校の勉強は社会に出て役に立たない」と思っているヒトの多くが「長期記憶」への知識の構造化に失敗しているのではないか? と思いました。

2011年11月17日木曜日

「正論」とは

「正論」とは、極めて正しいがゆえに日本人社会からは葬り去らなければならない理屈のことだ。
裏返して言えば、要するにそれだけ「理不尽で理屈に合わない酷 いことを生業にしている日本人が多い」ということなのだ。

理屈通りに正されてしまっては飯が食えなくなってしまう日本人のほうが多いのだ。

2011年11月12日土曜日

「わかりやすさ」をもてはやすことに対する警鐘

以前も多少はあったのだが、ここ数年もてはやされていることに「わかりやすさ」ということがある。
だが、私はこのことに違和感と危機感を感じるのである。

「わかりにくいよりはわかりやすいほうがいいに決まっているではないか!」
そう単純に思ったあなたは立ち止まって考えてみてほしい。
世の中のことでいとも簡単にわかってしまうことなどあるのだろうか?
たいていはいくらかんばって調べたり考えたりしても「ある程度わかること」と「どうしてもわからないこと」に 分かれてしまうのではないだろうか?

ここで私が問題にしているのは、「わかりやすくすることは悪い」ということではない。
「わかりやすさばかりを求めることで失ってしまうこと」があるのが問題ではないか、ということだ。

昨今は何でもかんでも「わかりやすい説明」が他人の手によって用意されている。もちろん、容易にわかりやすく説明できることを無理に難しく説明することはないが、「わかりにくさの中に問題の本質が含まれていること」まで本質を切り捨ててわかりやすさを優先してしまったら、その物事の本質を知らないままに誤った道を進んでしまうことがあるのではないかと私は思うのです。

ハッキリ言って、昨今の「わかりやすさブーム」は、わかりやすさを消費させられ物事の本質から目を背けさせられているようにしか私には見えません。
そのうちに、「わかりやすい説明が売られていない問題には目を向けなくなる」といったことや、「わかりやすい説明に世論操作されてしまう」などといったことが起こるのではないでしょうか?

ここ数日のTPP問題はまさにこの
「わかりやすい説明に世論操作されてしまう」
といったことがあちらこちらで見られたように私の目には映るのですが…。

2011年11月4日金曜日

TPP関連参考文献

今年(2011年)1月から2月にかけてツイートした、TPP関連参考文献 を 再掲
2012年2月~2013年10の文献を追加
→Wikileaks公開文献2013年11月13日,12月9日 【TPP交渉経過】追加
2013年11の文献を追加
→Wikileaks公開文献2014年1月15日 【TPP交渉経過】追加

※重要基本文献のみ掲載していますので、突飛な主張のものはありません。

【TPP関連必読文献】
石川 幸一「環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)の概要と意義」[PDF]
(『季刊 国際貿易と投資』2010年秋号 pp.64--pp.74)
佐々木 高成「オバマ政権の通商政策:ドーハラウンド・FTA政策の展望」[PDF]
(『季刊 国際貿易と投資』2009年夏号 pp.167--pp.180)
松石 達彦「東アジアにおけるFTA急増の背景とその問題点」[CiNii 論文PDF - オープンアクセス]
(『久留米大学 産業経済研究』第46巻第3号(2005年12月) pp.167--pp.190)
石田 信隆「TPPと戦略的経済連携 ─「開国」幻想と決別し整合性ある貿易政策へ─」[PDF]
(『農林金融』2010年12月号 pp.23--pp.41)

Ian F. Fergusson, Bruce Vaughn「The Trans-Pacific Partnership Agreement」[PDF] 更新
Updated December 12, 2011 CRS Report for Congress R40502
Brock R. Williams「Trans-Pacific Partnership (TPP) Countries: Comparative Trade and Economic Analysis」 [PDF] 更新
June 10, 2013 CRS Report for Congress R42344
Ian F. Fergusson, William H. Cooper, Remy Jurenas, Brock R. Williams「The Trans-Pacific Partnership Negotiations and Issues for Congress」 [PDF] 追加
August 21, 2013 CRS Report for Congress R42694

「TPP と日本農業・農政の論点 ―貿易自由化・食料自給率・農業構造・制度設計―」[PDF]
(国立国会図書館調査及び立法考査局『調査と情報 -ISSUE BRIEF-』No.703, 2011.2.)
「環太平洋経済連携協定(TPP)をめぐる動向と課題」[PDF] 追加
(国立国会図書館調査及び立法考査局『調査と情報 -ISSUE BRIEF-』No.735, 2012.2.)
「砂糖をめぐる状況―TPPの影響を中心に―」[PDF] 追加
(国立国会図書館調査及び立法考査局『調査と情報 -ISSUE BRIEF-』No.755, 2012.7.)
「環太平洋経済連携協定(TPP)の概要」[PDF] 追加
(国立国会図書館調査及び立法考査局『調査と情報 -ISSUE BRIEF-』No.770, 2013.2.)

「【アメリカ】 TPP(環太平洋経済連携協定)に関する下院公聴会」[PDF] 追加
(国立国会図書館調査及び立法考査局『外国の立法』No.250-2, 2012.2.)
「【アメリカ】 TPP(環太平洋経済連携協定)に関する下院公聴会」[PDF] 追加
(国立国会図書館調査及び立法考査局『外国の立法』No.251-2, 2012.5.)
「【アメリカ】 TPP(環太平洋経済連携協定)に関する下院公聴会」[PDF] 追加
(国立国会図書館調査及び立法考査局『外国の立法』No.252-1, 2012.7.)
「【アメリカ】 TPP(環太平洋経済連携協定)に関する下院公聴会」[PDF] 追加
(国立国会図書館調査及び立法考査局『外国の立法』No.256-1, 2013.7.)
「【アメリカ】 TPP(環太平洋経済連携協定)に関する下院公聴会」[PDF] 追加
(国立国会図書館調査及び立法考査局『外国の立法』No.257-1, 2013.10.)

片山 信子「課税自主権と地方への税の配分の国際比較」[PDF] 追加
(国立国会図書館調査及び立法考査局『レファレンス』2013.9 pp.39--pp.64)

「ISDS条項をめぐる議論」 [PDF] 追加
(国立国会図書館調査及び立法考査局『調査と情報 -ISSUE BRIEF-』No.807, 2013.11.)

【TPP交渉経過】
Secret Trans-Pacific Partnership Agreement (TPP) Wikileaks 追加
「Secret TPP treaty: Advanced Intellectual Property chapter for all 12 nations with negotiating positions」 [PDF] (Wikileaks / November 13, 2013) 追加

「Secret TPP treaty: Environment chapter for all 12 nations」 [PDF] (Wikileaks /January 15, 2014) 追加

Leaked Trade Negotiation Documents (Public Citizen / http://www.citizen.org/) 追加

Second release of secret Trans-Pacific Partnership Agreement documents Wikileaks / December 9 ,2013 追加


【米韓FTA参考文献】
「【韓国】 米韓自由貿易協定(FTA)批准同意案の可決」[PDF] 追加
(国立国会図書館調査及び立法考査局『外国の立法』No.250-1, 2012.1.)
「【韓国】 通商手続法の制定と米韓FTA再交渉要求決議案の可決」[PDF] 追加
(国立国会図書館調査及び立法考査局『外国の立法』No.250-2, 2012.2.)

【ASEANのFTA参考文献】
「ASEANのFTA政策」[PDF] 追加
(国立国会図書館調査及び立法考査局『調査と情報 -ISSUE BRIEF-』No.792, 2013.6.)

【WTOドーハ・ラウンド参考文献】
高澤美有紀「WTOドーハ・ラウンドにおけるサービス貿易自由化交渉」[PDF]
(国立国会図書館調査及び立法考査局レファレンス』2006.11 pp.153--pp.170)
樋口修「GATT/WTO体制の概要とWTOドーハ・ラウンド農業交渉」[PDF]
(国立国会図書館調査及び立法考査局レファレンス』2006.11 pp.131--pp.152)
松井一彦「WTOドーハ・ラウンドの意義と課題 〜各国議員間の論議を中心に〜」[PDF]
(参議院 調査室立法と調査』2007.4 pp.80--pp.91)

Ian F. Fergusson「World Trade Organization Negotiations: The Doha Development Agenda」[PDF] 更新
Updated December 12, 2011 CRS Report for Congress RL32060

【TPPを理解するためのWTO参考文献】
滝川 敏明・著『WTO法 ―実務・ケース・政策【第2版】』[amazon]

【FTAAP, APEC, CEPEA, EAFTA 参考文献】
星野 三喜夫・著『「開かれた地域主義」とアジア太平洋の地域協力と地域統合 ~APECの適切性と親和性についての実証的研究~』[amazon]


TPPに関する政府発表文書」も併せてご覧ください。

TPPに関する愚痴ツイートのまとめ (2)

GATT/WTO体制は「第二次大戦の原因はブロック経済にある」 とする国際社会の総括の帰結であり、TPPやFTAAPはGATT/WTO体制を揺るがす“21世紀型ブロック経済体制”に他ならないからこそ阻止すべき なのであり、単純な日米問題でもなければ関税自主権などの問題でもありません。

第一次・第二次世界大戦の経験を経た21世紀の現代に“19世紀的 な独立国家観や通商条約観”を単純にあてはめて語ることは危険だ。
21世紀の現代の現実に即した思考が必要不可欠なのだ。なぜGATT/WTO体制が必要 とされなぜそれが今行き詰まっているのか? 今の視点で客観視できているのか?

GATT/WTO体制を仮に全否定したとしても、もはや「安政の不平等条約」で問題になったようなレベルでの“絶対的関税自主権”は超大国アメリカですら実現不可能なのです。
TPPの問題点の核心はそんなところにあるんじゃない!

「酷いものなのは確かだが、攻めどころはそこじゃない!」と言っているのに誰にも理解されない。
TPPだけではなく、ありとあらゆる政治課題全てがそうだ。的外れな批判は敵を利するだけだ!

バラバラに的外れな批判を繰り返していては、各個撃破されていく…。こんなのは(戦略論をちょっとでもかじったことのある人間なら誰でも知っている)初歩的な戦略ミスだ。そんなんじゃ勝てるものも勝てなくなる。
本質を見失えば、我々日本人は国民共通の敵に各個撃破されてことごとく殲滅されてしまう。
通商問題の核心はどこにあるのか? 安全保障問題の核心はどこにあるのか?
データをもとに冷静に見極めよ!

2011年10月31日月曜日

フジテレビ「とくダネ!」が挙げていたTPP交渉分野

フジテレビ「とくダネ!」が挙げていたTPP交渉分野を見てみると…

  1. 物品関税
  2. 原産地規則
  3. 食品検疫
  4. 安全規格
  5. 貿易救済
  6. 政府調達
  7. 知的財産
  8. 越境サービス
  9. 商用者移動
  10. 金融
  11. 電気通信
  12. 電子商取引
  13. 投資
  14. 環境
  15. 労働基準
  16. 貿易手続
  17. 制度的事項
  18. 紛争解決
  19. 協力
  20. 競争政策
  21. 横断的事項
24分野だと言い張っている一部知識人や一部国会議員に比べればマシだが、「横断的事項」を独立した一分野として挙げるのはどうだろう?

平成23年2月1日付け外務省文書
「TPP交渉の24作業部会において議論されている個別分野について」(PDF)
をちゃんと読んだのかな?

TPPに関する愚痴ツイートのまとめ (1)

TPPに賛成か反対かを言えるのは、GATT/WTO体制に関する基礎知識、GATT/WTO体制におけるRTAの要件、アジア太平洋地域における各種RTAや二国間FTA/EPAの締結状況、P4協定の中身などを知っているのが前提だが、TL上の賛成・反対はそれらが不明確だ。

(TPPに限らず)「反対する理由があるから反対する」んじゃなくって、「何が何だかわからなくて不安だから反対する」っていう… しかも「情報の隠蔽や操作」はわからない理由のほんの一部に過ぎず、大半は「情報の体系的整理・蓄積の怠慢」という国民の怠慢のせいなのだ。

もう何度も繰り返したので細かいことは敢えて書かないが、ちゃんと調べれば日本にとってTPPは不利でCEPEAのほうが有利なんてのは誰でもすぐにわかる。CEPEAのことを持ちださずにただ闇雲にTPP反対だけ唱えるのは、無知の上に胡坐を書いて不安に怯えているだけだ。

国民にも国会議員にも民主的手続きを進める能力がないので、そこにつけこまれてなし崩し的にTPP参加表明へとなだれ込むことになるわけです。路上や院外で騒ぐだけでは世の中は良くなりません。全ての政治課題について「判断材料としての情報の体系的整理・蓄積」の上に立った議論を!

TPPの問題について、「TPPか二国間FTA/EPAか」という問題に矮小化してはいけない。議論の出発点は「第二次大戦の総括としてのGATT/WTO体制にコミットできるか?」ということです。

2011年10月16日日曜日

日本は民主主義の国ではない

いまさら言うまでもなく、民主主義の本質は「治者と被治者の自同性」にある。
そして、「国民」が「治者」として機能するためには、
(1)判断材料・(2)判断基準・(3)判断能力
を持つことが必要不可欠だ。

その点、
(1)判断材料としての情報の流通の自由化
(2)判断基準としての情報の体系的整理・蓄積
という
2つの「情報の民主化」が一向に着手されず、
「国民」の圧倒的大多数が
(3)情報に関する充分な判断能力
を持っておらず、
それどころか、
(4)母国語の読み書き
も満足にできない(←TwitterやblogやSNSに書かれたイカレた日本語を見ればよくわかる)。

こんな状態では、日本の民主化が実現できるはずがないのだ。

でも、改革を主張しても誰も賛同しない。“日本が民主主義の国になってしまっては困るヒト”がほとんどだからだろうね。
実際にそういうヒトを何人も知っているから。

2011年10月4日火曜日

駐車場の警備員による誘導に疑義を感じる

いつも思うのだが、デパートやショッピングモールの駐車場入口の警備員のやることは本末転倒だ。
「歩行者の安全を確保するために自動車を制止すべき」なのに「自動車の便宜のために歩行者の妨害をしている」。

道路交通法は その第二十五条の二で
(横断等の禁止)
第二十五条の二 車両は、歩行者又は他の車両等の正常な交通を妨害するおそれがあるときは、道路外の施設若しくは場所に出入するための左折若しくは右折をし、横断し、転回し、又は後退してはならない。
 車両は、道路標識等により横断、転回又は後退が禁止されている道路の部分においては、当該禁止された行為をしてはならない。
(罰則 第一項については第百十九条第一項第二号の二 第二項については第百二十条第一項第四号、同条第二項) 
 と定めている。歩行者の正常な交通を妨害することを法は許してはいない歩行者の妨害になる場合は駐車場に出入するための左折若しくは右折をしてはいけないのであり、歩行者の通行が終わるのを待つべき法的義務があるわけだ。
 デパートやショッピングモールの駐車場入口の警備員がやっていることは、これに違反するのを幇助もしくは教唆しているのだ。
つまり、デパートやショッピングモールの駐車場入口の警備員がやっていることは許されないのである。

* なお、道路交通法第百十九条第一項第二号の二の罰則は、「三月以下の懲役又は五万円以下の罰金」です。

2011年10月2日日曜日

歪んだ「右側通行」幻想

私はそもそも「右側通行の原則」などというルールは日本には存在しないと知っています。
ですが、実に多くのヒトが「右側通行の原則」なるものを妄信していてそれに対して異常なこだわりを持っているのも知っています。

ですが、百歩譲って日本に「歩行者対歩行者は右側通行」なるルールが仮にあるとしても、その前に「歩道通行の原則」(道路交通法第10条第2項)という最優先のルールがあるので、それを優先させなければならないと思うのです。

(通行区分)
第十条  歩行者は、歩道又は歩行者の通行に十分な幅員を有する路側帯(次項及び次条において「歩道等」という。)と車道の区別のない道路においては、道路の右側 端に寄つて通行しなければならない。ただし、道路の右側端を通行することが危険であるときその他やむを得ないときは、道路の左側端に寄つて通行することが できる。
 歩行者は、歩道等と車道の区別のある道路においては、次の各号に掲げる場合を除き、歩道等を通行しなければならない。
 車道を横断するとき。
 道路工事等のため歩道等を通行することができないとき、その他やむを得ないとき。
 前項の規定により歩道を通行する歩行者は、第六十三条の四第二項に規定する普通自転車通行指定部分があるときは、当該普通自転車通行指定部分をできるだけ避けて通行するように努めなければならない。 
以下の図のような状況を想像してみてください。

歩道はありませんが、道路交通法上「歩道等」として扱われる「歩行者の通行に十分な幅員を有する路側帯」がある道路です。
こちらから見て右側にその「路側帯」はあり、人が2列ないし3列並んで通行できるだけの幅があるとします。

私は、「歩行者対歩行者」は「左側通行」で、かつ道路交通法 第10条第2項に「歩道通行の原則」が規定されているので、路側帯の左側を車道にはみ出さないように通行しています。

反対側から同じ路側帯を「右側通行」で歩行しているヒトがやってきました。どうやら「右側通行の原則」なるものを妄信しているようです。

さて、このままお互いに進むとぶつかりますが、向こうから「右側通行」でやってきたヒトはこのあとどう進んだでしょうか?

なんと、路側帯をはみだしてまで「右側通行」に固執したのでした。つまり、道路交通法第10条第2項違反です。

とても不思議です。
 彼は「右側通行の原則」という(実在はしませんが)ルールに固執したために実在のルールである「歩道通行の原則」(道路交通法第10条第2項)に違反したのです。

なんて愚かなんでしょう!

私には彼の行動がまったく信じられません。いったい何を考えているんでしょうか?

2011年9月28日水曜日

「反原発不買運動」について

反原発運動の一環として「不買運動」を試みる人たちがいるが、果たして効果をあげることができるんだろうか?
結論から言えば不可能だ。それが現実だ。心意気は買うけれども現実的ではない。
仮に実現できたとしても、それは日本の経済活動を完全にストップさせてしまうことになる。

一般消費者の持つ影響力という観点から

反原発不買運動の対象企業の生産活動を冷静に見ればわかるが、それらの企業の売上や収益は一般消費者の消費活動からはほとんど影響を受けない。一般消費者が不買運動を行っても、それは他の要因(たとえば為替レートの変動)によって受ける影響よりも少ないのだ。
だから、原発関連企業に有効なダメージを与えたいと考えて家庭向け民生品の不買をしたとしても、それは原発関連企業の総売上のほんの一部であり影響はない。

原発関連企業の生産活動全体という観点から

次に、反原発不買運動の対象企業の生産活動全体に影響を与えることを仮定してみよう。

原発関連企業の生産活動は多岐にわたる。むしろ、日本国内の経済活動に幅広くかかわっている企業だからこそ原発に関わる経済力と技術力を持っているといったほうがいい。
なので、原発関連企業に対して(たとえば、総売上の過半数を占めるほどの)不買運動が仮に実行されれば、大半の日本企業は主要な部品や原材料の国内調達ができなくなるくらいの影響力を原発関連企業は持っていると考えるべきなのだ。
つまり、原発関連企業に対して有効なダメージを与えるほどの不買運動は、原発関連企業のみならず日本国内の経済活動全般に対して多大なダメージを与えることになる。現実にはそれだけの不買運動は不可能ですが。

要するに、一般消費者が考える「反原発不買運動」は有効性に乏しいと言わざるを得ないのです。
そもそも、原発に関連して「○○」という企業が製品を納入しているとして、どこまでが直接の資本関係のある企業なのか判断できますか? 「○○」という文字だけに着目して不買運動を実行すれば資本関係的には無関係な企業にダメージを与えることだってありますよ。そこまで考えずに「不買運動をしましょう」とツイートされているのを見ると恐ろしくなります。

2011年9月25日日曜日

TPPの交渉分野は24だと言われているけどホントですか?

よく「TPPの交渉分野は24だ」と言われているが、本当なのだろうか?

平成23年2月1日付け外務省文書
「TPP交渉の24作業部会において議論されている個別分野について」(PDF)
を見ると、たしかに作業部会の数は24だが、そのうち2つは
主席交渉官協議

「分野横断的事項」作業部会
で、
分野別作業部会は22。
つまり、TPP交渉分野は(最大でも)全22分野なのだ。

2011年9月24日土曜日

「健全な民主政治」が実現されるためには

「情報の体系的な整理・蓄積」がなされ、それが広く一般市民による利用可能な状態になっていなければ、健全な民主政治が行なわれることはない。なぜこんな簡単なことに賛同してもらえないのでしょうか?
それとも「健全な民主政治」が実現されるとあなたにとって何か困ることがあるのでしょうか?

嫌われ者の私が言っていることだから黙殺しているのですか?
「何を言っているか」より「誰が言っているか」を重視する世の中が人間一人一人に幸福をもたらすとは思えません。

私を嫌うのは一向に構わない。しかし、私が言っていることに妥当性があるのなら私の言葉に耳を傾けるべきです。
私はあなたに好かれたいといった小さな気持ちで語っているのではなく、あなたと私が住むこの世の中をよくしたいと思っているだけなのです。
私が嫌われることなんて、私が言っていることが黙殺されることに比べたら小さなことですよ。

2011年9月17日土曜日

「言論なきデモ行進」に関するエントリーへのリンク集

「言論なきデモ行進」に関するエントリーへのリンク集

これまで「言論なきデモ行進」についてこのブログに書いてきた記事のエントリー一覧を作ってみました。
Twitterのプロフィールなどからこのブログを見に来られた方に特に読んでいただきたい記事の一覧です。

私が「デモ行進」に賛同できない理由 (2011/05/18)
再言:「言論なきデモ行進」について (2011/09/12)
「言論なきデモ行進」について、もう一言 (2011/09/17)

「言論なきデモ行進」について、もう一言

「言論なきデモ行進」について、もう一言だけ言うと、
「地道な言論活動と密接なデモ行進」でないと成果は得られない
という観点から考えても、「言論なきデモ行進」(正確には「言論活動非前置型デモ行進」)にはあまり意義を見出し得ないのだが、「主催者が謳う目的以外の目的を持った者が紛れ込む危険性」という観点から考えても、日頃日常的に言論活動を共にする者同士による「言論活動前置型デモ行進」よりもかなり高いという点は注目すべきだろう。

そもそも「言論活動非前置型デモ行進」の場合、
「どういう目的の主張であれば“主催者が謳う目的”に合致するのか」
が、日常的に言論活動を共にする者同士ではないので参加者相互で事前に知り得ないし、“主催者が謳う目的”に合致するか否かの基準があいまいに過ぎるのです。

たとえば、「何が“脱原発”の範囲内に収まるのか?」は実は極めて不明確・不明瞭です。
「国内電力会社の電力供給については一切原子力発電はしないでください」
という点に事前に限定できれば明確・明瞭と言えるかもしれませんが、日常的に言論活動を共にする者同士でなければ限定は不可能ですし、完全に「同床異夢」となってしまいます。
原子力の問題は核兵器の問題につながりますし、実は原子力発電所の存在は安全保障上の重大な脅威とも考えられています。日常的に言論活動を共にするのでなくても、最低限参加者間の事前のすり合わせを行わなければ、核兵器や安全保障に関連する主張を「言論活動非前置型“脱原発”デモ行進」の中で主張することを止めることはできません。むしろ不可能だと言い切ることができます。

特定目的の言論アピールの場として「デモ行進」をするのであれば、一定程度の規模の事前の言論活動を伴う「言論活動前置型デモ行進」とせざるを得ないのです。

ただ、その基礎となるべき「情報の民主化」が未着手・未達成なので、私は「デモ行進」に参加する気にはなれませんが。

2011年9月12日月曜日

再言:「言論なきデモ行進」について

「言論なきデモ行進」は“徒労”だ。「地道な言論活動と密接なデモ行進」でないと成果は得られない。
だが、成果の出ない「言論なきデモ行進」であっても、参加者から逮捕される者が一定数出てしまう。何の成果も出ないにもかかわらずだ。

実は「反原発デモが“言論活動と無関係に気やすく参加できるイベント”にとどまり続ける限り、原発推進派にとって状況は有利であり続ける」のではないだろうか?
“デモ行進当日その場かぎりの集団”と“日常的な言論活動をデモンストレーションするために行進をする集団”と、権力者にとって脅威なのはどちらかよーく考えてみよう(苦笑)。

当人たちの意思や動機がどうであれ、「デモ行進」をする以上は一応「背後関係」の存在を前提に警察は動くだろう。だから、たとえ「言論なきデモ行進」であっても(潜在的参加予備軍の参加を抑止するためにも)当然逮捕者は出る。成果が見込めない「言論なきデモ行進」で逮捕されるなんて「ハイリスク・ノーリターン」なことは馬鹿馬鹿しい。

2011年9月1日木曜日

「情報の民主化」具体化のための各フェイズ

「情報の民主化」については、目指すべき方向性はあらかた語り尽くした。
《提案フェーズ→設計フェーズ→実行フェイズ→改良・拡張フェイズ》
という段階で言えば、「提案フェイズ」は終了したと言っていい。
あとは、賛同者が現れて具体的に実現する流れを作るだけだ。


まずは、実現のための「設計フェイズ」に移行しなければならない。
「提案フェイズ」で考えたことを具体的に実施するための実現手段を設計するのだ。

実現のためには、実現技術を支援してくださる方と、実現のための資金を援助してくださる方が必要だ。

とはいえ、まだ「提案」に対する(「いいですね」と言うだけの観念的な賛同ではなく)具体的な行動に結びつくような意味での「賛同」がまったく得られていない段階では、単なる夢想・妄想のレベルですけどね。

2011年8月31日水曜日

「情報の民主化」に関する勘違い

もしも「情報の民主化」を「主観の排除」と理解するならそれは勘違いだ。
むしろ、「「議論」の基礎としての主観の体系的位置付け」と呼ぶべきだ。

自説と反対説とを体系的に整理し、その体系の中に正確に位置付け、それぞれの長所と短所を見極め把握することが、国民主権下の民主政治における有権者の判断の基礎として必要不可欠なのだ。

2011年8月2日火曜日

「議論」について

よく、
「Twitterは議論には向かない」
という不思議な表現を見かける。
そういう時は
「議論に向かないのはTwitterじゃなくてあなたなんじゃないの?」
とも思うのだが、そういう揶揄はさておき、そのような誤解はそもそも「議論」という言葉についての誤解がその根底にあるのではないかと考えます。

よく私は、
「「対話」は「議論」の要素ではない」
という表現を使います。
「「対話型議論」と「非対話型議論」と「議論」には2種類ある」
という表現もしますが、要するに
「「議論」とは、
(1) 反対説について論理的な「批判を行ない、
(2) 自説を展開し主張立証すること
である」
と考えます。
このプロセスには必ずしも「対話」は必要ではなく、論文でもブログでも構わないのです。

その意味では、このブログ記事も「非対話型「議論」」となっています。

「Twitterに140文字の字数制限があることが「議論」に向かない理由だ」
という主張は一見正しそうですが、いくつかの tweet に分割すれば済むだけの話で、140文字を超えた文章で自説を主張立証するのが苦手な言い訳にTwitterの140文字制限が無意識のうちに利用されているようにも思えます。

2011年7月19日火曜日

学校の勉強はホントに社会に出て役に立たないのか?

「学校の勉強なんて社会に出て役に立たない」
って言われて真に受けちゃったヒトってホントにいるみたいですね。

まあ、確かに「そのまま役立つことはない」という科目もありますし、
高校3年と大学1~2年の間を架橋する学習が必要な科目もありますけど、
学校の勉強社会に出て役に立たない」っていうのは明らかな嘘です。
 
それって、要するに
“学校での勉強を役に立てることに失敗したヒトの言い訳”
に過ぎないと思います。


→「学校の勉強はホントに社会に出て役に立たないのか? (続)

 

2011年6月23日木曜日

あたりまえのこと

いくつか基本的なことを書いたら、「情報の民主化」についてはもう書くことがなくなってしまった。

「情報の民主化」って所詮は“きわめてあたりまえのことに関する概論の総論”だから、賛同者が具体的に一人以上現れて具体的な実現フェーズに入らなければ、これ以上言うことも書くことも何もないんですよね。

2011年6月15日水曜日

「日本語」とは?

「 「国民国家」における「情報の民主化」の前提としての「国語」の重要性について」の補足ですが、ここで言う「日本語」というのはもちろん「国家単位での共通語である「国語」」としての「日本語」なので、各地方の方言は当然入りません。

よく私が
「○○弁は「日本語」じゃない」
と言うとものすごい剣幕で怒り出す人がいます。
「日本」や「日本語」という概念を勘違いしていらっしゃるみたいなので、敢えてここで説明を加えておきます。

2011年6月5日日曜日

「国民国家」における「情報の民主化」の前提としての「国語」の重要性について

今回は「情報の民主化」と言葉の関係性のお話。
でも、言語での意思疎通に問題を感じて書き始めたこともあり、敢えて文章化はせず下書きのブロックメモをそのまま載せます。

推敲途中の文章を意図的に掲載したり、敢えて文章化はせず下書きのブロックメモをそのまま載せたり、それにも意味があるのですが、その意味は各自勝手に考えてください。

*     *     *     *

「個」の経験のみを重視する考え方の危険性 →「知」を共有する必要性(「知」の結集=近代立憲主義の礎)
      ↓
テレパシーがない →言語で「知」を共有する必要性
      ↓
近代「国民国家」における言語での「知」の共有 →国家単位での共通語である「国語」が必要
      ↓
ところが、今の日本では「国語」(=「日本語」)が崩壊している。
ごく身近な人間にしか通じない言葉(=「あたしたち語」でしか話せないヒトたち
      ↓
言語レベルで考えると…
今のままでは「情報の民主化」以前に相互に言葉が通じない →言語での「知」の共有は不可能
      ↓
「情報の民主化」の達成は不可能?

2011年5月30日月曜日

私が「情報の民主化」を唱えるにあたって影響を与えているもの

私が唱える「情報の民主化」を、理念面 で支えているのは「近代立憲主義へのアフェクション」であり、実践面では『孫子』の兵法の“情報に対する考え方”の現代的なあてはめだ。

「近代立憲主義へのアフェクション」については、佐藤幸治・著『憲法』(青林書院新社 現代法律学講座5 初版(1981年))の「はしがき」を読んでいただくとして、『孫子』の兵法の“情報に対する考え方”は日本人にとっての一つの常識なので、あらためて『孫子』の原文を読んできちんと確認しておいていただきたい。

彼を知りて己れを知らば、百戦して殆うからず。彼を知らずして己を知らば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず殆うし」(『孫子』謀攻篇

「彼を知り己れを知らば、勝は乃ち殆うからず。天を知り地を知らば、勝は乃ち全うすべし」(『孫子』地形篇

「情報の民主化」を疎かにし「彼を知らず己を知らざれば」どのような憂き目にあうのか、原発震災で「もういや!」というほど散々思い知らされてきたはずだ。

2011年5月28日土曜日

「情報の民主化」に対する誤解

くり返しになりますが、もし、私が唱える「情報の民主化」に「市民メディア」というキーワードを重ね合わせているヒトがいるとしたら、ほぼ間違いだ。少なくとも私自身はそこ(=「流通」)には力点を置いてはいないし、実は期待もしていない。
むしろ、「判断基準としての情報の体系的整理・蓄積」だけでも95%以上目標は達成可能だと思っている。

「通常の更新の前に…」でも書きましたが、
たとえ「流通」のほうがいい加減だったとしても「蓄積」のほうがしっかりなされていて自由に利用できれば、既存メディアの「流通」させている情報のいい加減さを見抜くことができます
から、必ずしも
「市民メディア」のような「判断材料としての、情報流通の自由化
に関して殊更に「情報の民主化」を唱えて新たに何かを起こす必然性はないのです。
もちろん、何らかの形で「情報流通の自由化」を同時並行で進めていくことは重要ですけどね。

2011年5月27日金曜日

「情報の民主化」が達成された後の社会 (未来像)

「情報の民主化」が達成された後の社会がどんな社会になるのか、その未来像が想像できるだろうか?
正直言って自分でも想像ができない。それには二つの要因がある。

まず、そもそも本当に私以外の人が“私が唱える「情報の民主化」”について理解していないのではないか、という疑念が払拭できないからだ。
たとえば、最近 Twitter で私に
「情報の民主化が進まない限り、○○○は不可能じゃないでしょうか」
とツイートしてきた人がいる。そこで挙げられた「○○○」は、私に言わせれば「情報の民主化」未達成状態でこそ容易に実現可能なことだったのです。

もう一つの要因は、たとえ正確に“私が唱える「情報の民主化」について理解していたとしても、一定程度の完成を見る前に途中からディスコースしてしまい当初望んでいたところとは別の形に大きく変容してしまう可能性が高い、という疑念が強いからだ。

尤も、後者に関してはいかなる変革についてもある程度は避けられないことなのだが、「情報の民主化」の場合、意図的な介入によって枉げられる可能性が高いということは注意が必要だ。


このような前提の上に立って、今想像可能な“「情報の民主化」達成後の未来像”をモデル的に考えてみたい。
なお、以下に挙げるものは、未来像を描きやすいように「例示」をしただけであって、その他の形態のほうが実現性が高いことも十分考えられる。脳を柔軟にさせてお読みいただきたい。

*     *     *     *

膨大な過去の情報の入手のあり方 ~「情報の民主化」(1) 情報の体系的整理・蓄積

今現在の日本で何らかの情報を入手しようとした場合、どういう形態が考えられるか?
正直言って、混沌していて情報が探しにくいというのが私の印象だ。

学校教育でもテレビ報道でも、知りたい物事についてそれぞれに含まれている
  • 関連分野
  • 基礎データ
  • 歴史的位置付け
  • 研究の蓄積の所在
がまったく不明な状態のまま、テレビのコメンテーターやアナウンサー、教師などが言ったことを一方的に受け入れなければならない。

書店に並ぶ本にしたって、そこに何が書いてあるのか正確にはわかっていない書店員の思い込みによって分類され、本当に置かれるべき棚とはまるっきり違う棚に置かれていることが実に多い。運良く必要な本らしきものにたどり着けたとしても、著者の研究実績や信頼性がさっぱりわからない状態で購入の決断を迫られるといった有様だ。
これは、インターネット経由で入手可能な情報についてもまったく同じことが言える。


2つの「情報の民主化」が達成された社会では、情報を体系的に整理してアーカイブ(蓄積)している民間非営利セクターが複数設立されていて、過去の情報を無料もしくは低廉な使用料金で提示してくれる。
情報の蓄積は、“民間営利企業とは金銭的にも情報セキュリティ的にも隔離された独自のデータセンター”に構築されたデータベースサーバーを使って行なわれており、民間営利の通信事業者の通信ネットワークを経由して安全に暗号化された形でユーザーのパソコンや携帯電話を使ってアクセスできる。

もちろん、著作権についても一定の配慮がされているので、情報コンテンツの詳細に立ち入らなくても調べたいキーワードに関連した学問の学術体系の中での位置づけや、紙媒体・電子データのすべてにわたる文献一覧が、相互にどんな隣接学問分野や関連キーワードを介して相互にリンクしているのかを、アクセスしている情報機器やネットワークの通信帯域に応じた詳しさで教えてくれる。
著作権の保護期間が過ぎているものや、著作権使用料を事実上放棄しているものはその場で無料でダウンロードすることもできるし、それ以外のものは購入・図書館での閲覧/有料複写サービスなどでの情報入手方法を素早く教えてくれる。

そういったサービスさえも受けられないようになっている情報に関しては、情報を公開するよう活動している非営利民間セクターについての情報やそれらの活動を支援するための情報が提供される。

あと、重要なのは、これらの情報のアーカイブ(蓄積)にアクセスできるのは、パソコンや(スマートフォンを含む)携帯電話だけではないということだ。テレビなどのレガシーメディアの一部にも、簡易キーボードでアクセスできる機能を持ったものや、録画予約用に入力した番組名やキーワード、あるいはその番組の内容についてEPG(電子番組表)が提供してくれた文字情報の一部を切り取って自動的に情報のアーカイブ(蓄積)にアクセスしておいれくれるものもできるだろう。

(この点については「教育」の現場でも大幅な改善が望まれ、期待されるが、ひとまずここでの事例紹介では触れないでおく)


このようにして、大量に世の中に「流通」している情報を見て判断する際に、今「流通」している新しい情報より前の過去の情報を体系的に整理したアーカイブスにアクセスして、今受け取った情報を自力で精査できる「土台」を手に入れることができるわけです。
それをもたらすのが、「情報の体系的整理・蓄積」なのです。

*     *     *     *

最新の一次情報にダイレクトにアクセス ~「情報の民主化」(2) 情報の流通の自由化

このblogをごらんの方であればおわかりと思いますが、ここ何年かのTwitterやUStream、ニコニコ動画などの利用の普及によってほんのちょっぴり状況が変わったとはいえ、日本で今起きていることの最新情報を手に入れる方法は極めて限られています。



2つの「情報の民主化」が達成された社会では、“電波を使ったテレビ放送”やインターネット放送の様々な場面に、既存のマスメディア以外の団体が、主に民間非営利セクターが多数参入しているだろう。

まず“電波を使ったテレビ放送”については、既存のマスメディア以外の新規参入の団体が、未利用もしくは既存の事業者が使用していたチャンネルの一部を整理・統合により開放した既存のチャンネルでテレビ放送を行なっている。基本的に、地上波デジタルもBSデジタルも「マルチ編成」を24時間使うことを原則とし、主利用事業者が使わないサブチャンネル枠は他の事業者に貸し出されることを義務付ける。このようにすれば、地上波であれば理論上同時最大36の放送枠が使え、そのうちの一部は新規事業者に割り当てられる。

一方、インターネット放送に関しても、主にデータセンター事業や放送配信事業に民間非営利セクターが多数参入する。当然に、記者クラブなどのような既得権益を振りかざす団体の存在は許されず、上記の新規テレビ放送参入事業者を含めた放送配信事業者が、記者会見・裁判を自由に放送・報道し、国会内も本会議場・委員会室をはじめ全ての場所に一定の形式的要件を満たした放送配信事業者が自由に出入りできるようになっている。これにより、全ての記者会見・裁判の公判・国会の本会議や全ての委員会審議が、地上波デジタル放送の「マルチ編成」を使ったサブチャンネルやインターネット放送によってノーカットで完全中継される。

もちろん、これらの「放送」の内容は、音声付映像ファイルとしてアーカイブされるのはもちろんのこと、可能な限り文字化されてこれもアーカイブされる。アーカイブされた映像ファイルや文字情報は、前述の「情報を体系的に整理してアーカイブ(蓄積)している民間非営利セクター」によって利用可能な素材ともなる。

*     *     *     *

以上、限られた時間の中でざっと今あるイメージで書いてみました。
これ以外の実現形態も当然ありますし、私が書いた中には当面は実現不可能なものもありますが、「前進するためのモチベーション素材」として見ていただければ、と思います。


なお、文中に登場する「民間非営利セクター」について、一般的にある誤解をといておきます。
非営利」というのは、
事業活動によって得られた利益を出資者には還元しない。」
という意味です。
「非営利=事業収入を得ない。スタッフは無給」
という勘違いをされている方があまりにも多いので、一言申し添えておきます。

2011年5月26日木曜日

「日米地位協定」に関する参考文献

今日は、「日米地位協定」に関する参考文献を2つ紹介したいと思います。

あれ? 「情報の自由化」の話じゃないのかって? まあ、よく読んでみてください。

紹介するのは、
『在日米軍地位協定』
『日米地位協定の考え方 増補版 外務省機密文書』 

の2冊です。

1冊目の
『在日米軍地位協定』
は、本間浩(ほんま ひろし、1938年7月9日 - 2013年5月10日)法政大学名誉教授による「日米地位協定」に関する学術体系書です。
「日米地位協定」の基本構造、日本政府・米軍・基地周辺住民をはじめとした日本国民との間の三面関係、「日米地位協定」が規定するそれぞれの事項に関する各論の検討を行なった数少ない学術書です。

2つの「情報の自由化」のうちの「(1)判断基準としての、情報の体系的蓄積による知識化」のモデルを書籍の形で表現したものです。

2冊目の
『日米地位協定の考え方 増補版 外務省機密文書』
は、沖縄返還前の日本本土への適用を前提に1960年に制定された「日米地位協定」を1972年の沖縄返還にあたって沖縄にも適用する際の問題を含めた外務省内部の「日米地位協定マニュアル」である「日米地位協定の考え方」(1973年)。これを1983年に増補改訂したものを琉球新報社がスクープ入手し、その内容を公表したものです。

2つの「情報の自由化」のうちの「(2)判断材料としての、情報流通の自由化」のモデルを書籍の形で表現したものです。

通常の更新の前に…

私が考える「情報の民主化」は、
(1)判断基準としての、情報の体系的蓄積による知識化
(2)判断材料としての、情報流通の自由化
の2つです
しかも、前者の「蓄積」(「羅列的蓄積」ではなく「体系的蓄積」です)のほうがはるかに重要なのです
たとえ「流通」のほうがいい加減だったとしても「蓄積」のほうがしっかりなされていて自由に利用できれば、既存メディアの「流通」させている情報のいい加減さを見抜くことができますから。

どう考えても 「情報流通の自由化」だけが「情報の民主化」だと勘違いした反応を示す方がいらっしゃるので、再度確認させていただきます。

2011年5月25日水曜日

タイムリミット

世の中には「タイムリミット」を提示しないと悠長に構えて、
「それは理想ですけどね」
とか
「おっしゃることはわかりますけど実現するのは大変ですね」
と言って逃げる人だらけなようだ。

私はなにも道楽で「情報の民主化」を唱えているわけではない。
2020年までに「情報の民主化」が達成されないと、 この日本はおしまいだと考えているのだ。

2020年にタイムリミットを設定し意味や理由については、敢えてここでは触れないで置くことにする。「情報の民主化」というきわめてわかりやすいことさえ簡単には理解できない人に一足飛びに理解してもらえるとは思えないから。

2020年に「情報の民主化」を達成するためには、2015年中には具体的に行動を起こして最低一つのものを形にしておく必要がある。
そのためには、今年のうちにはその最初の一つを具体化させるための賛同者が複数集まっていなければならない。

間に合わせることは不可能ではないけれど、今のままなら間に合わないでしょうね。
あなたがこの話を夢物語だと思っているうちは…。

どれだけ懸命にどれだけ地道にがんばったとしても、「情報の民主化」という土台が欠けていてはその努力はいずれ確実に水泡に帰すのです。

私の主張に対する反応の要約

私の視界の中にいる日本人の考え方は
「自分が楽できるなら変革は望むけど、面倒だから自分は関わりあいたくない」
と要約できるのかな?(苦笑)

関わらない変革は、実は望まない変革である。

 日本人は、(各自の内心はどうであれ外形上は滅亡願望を持っていると言わざるを得ません。

2011年5月21日土曜日

「有名人の信用の連鎖」

「右側通行志向」は危険」に続いて、余談をさらにもう一つ。

*     *     *     *

Twitterを始めてから1年半。つくづく「無名の一般人」にとってはTwitterそれ自体は何の役にも立たないという、きわめて当たり前とも言えることを思い知らされた。ネット上の文化人やマスコミにもてはやされた経歴を持った人々は Twitter 自体の効用をやたらと強調するようにも見えるが、どうやらそれは幻想らしい。それは、「無名の一般人」が“多くの日本人が関心が高いと言われているタイムリーな社会問題”についてツイートすることによって確かめられる。「無名の一般人」が真剣に論じてもほとんど相手にされはしないのだ。

どうやら日本人の志向から考えて、当の本人の「正しさ」よりも「有名人かどうか」というのが発言を信用する際の尺度として重要らしいということがわかる。その次は「自分が知っている有名人が信用しているかどうか」が重要らしい。以下、「有名人の信用の連鎖」に連なっているかどうかが決め手となる。
つまり、この「有名人の信用の連鎖」に連なっていさえすれば、どんないい加減な人間の言説であっても Twitter を媒介にしてあっという間に広まるが、「有名人の信用の連鎖」に連なっていない「無名の一般人」であればどれほど的確でわかりやすい説明によっても広まることはないのだ。まったくないとまでは言い切れないが、きわめて例外的なのだ。

つまり、「有名人の信用の連鎖」という観点で言えば、私自身は有名人じゃないし「有名人の信用の連鎖」にも連なっていないから、私の発言が広く信用されることは(絶対ではないが)まずないと言ってよいでしょう。私自身の信用の問題でもなく、私自身の説明や主張の巧拙の問題でもないのです。
「有名人の信用の連鎖」重視。それが一般的な日本人ってものなのですから。

ちなみに、私の大学の友人の親なんてテレビに出てない大学教授は大学教授として認めなかったらしい。
友人が尊敬するH教授を卒論の主査に決める前に、たまたま運よくその教授にクイズ番組出演の機会(完全に専門外のことについて「番組の頭脳」として簡単なコメントをするだけのご出演)があって助かったと友人は言っていた。
「へえ~っ。H教授って有名だったんだ」
と言われたそうな。

2011年5月19日木曜日

「右側通行志向」は危険

情報の民主化」に関連する余談を一つ。

*     *     *     *

私が他人(ひと)の思考の志向性について推し量るのに使っている指標の一つに「歩行者の通行方法」がある。

困ったことに多くの人が「右側通行の原則」という嘘を鵜呑みにしているばかりか、その「右側通行幻想」すら“ご都合主義の勝手な解釈で都合のいいときだけ否定”している人があまりにも多いのだ。

世間の人が「右側通行幻想」のより所にしていると思われるのが、道路交通法第10条第1項本文だ。
何が書かれているかと言えば、要するに
「(1)歩道と車道の区別がない道路では、
(2)歩行者は右側端に
(3)寄って通行しなさい」
ということなのだ。
実際に条文を読んでいただければわかるとおり、実はこの条文には「右側通行」とも書いてないし、「原則」とも書いておらず、条文構成上も「原則」と解釈できる余地はないのだ。

上記の(1)から(3)にこの条文は分けられ細かい解釈が可能なのだが、もっと細かく言えばその前の0番めに、
「(0)自動車と歩行者との間の棲み分けルールとしては」
というのが入ると考えなければならない。
つまり、「右側通行幻想」を持っているヒトが暗に考えている「歩行者対歩行者のルール」というのは初めからこの道路交通法第10条には与えられていない役割なのだ。

だから、道路交通法第10条第1項が想定している「歩道と車道の区別がない道路」では、
(a)道路の真ん中には自動車が大きな顔をして悠々と通行していて、
(b)歩行者は、歩行者から見て道路の向かって右側の端(←「端」というのがポイント)に、自動車の通行から生じる危険を避けるように通行する。
という状況になるわけです。
「歩行者対歩行者」という対面はあり得ません。道路の真ん中にいる自動車に遮られて向こう側から歩いてくる歩行者はこちらからは見えないのですから。

これが道路交通法第10条第1項の規定する内容なのです。条文を理解するための最低限度の日本語読解力があれば簡単にわかることです。「右側通行の原則」だと誰が言おうとも、それが間違っていることは簡単にわかります。

ところが、多くのヒトが自分の目で条文を見て自分の頭で考えようとはしません。誰が言ったかはっきりしない「右側通行の原則」という幻想を完全に鵜呑みにしています。

私はこのような、「誰が言ったのかもはっきりしないようなことをただ漫然と鵜呑みにして信じ込む考え方」
「右側通行志向の思考」
と呼んでいます。
「志向」と「思考」が同音異義語の関係になっていて紛らわしいので、「志向」のほうを英語にして
「右側通行オリエンテッド思考」
とも呼んでいます。

この「右側通行オリエンテッド思考」は、はっきり言って為政者にとっては好都合です。何を言っても騙せます。増税も徴兵も原発推進も思いのままです。だって、誰も基本情報を読まず、誰が言ったかさえはっきりしないことを簡単に鵜呑みにしてくれるわけですから。

別に右を歩こうが左を歩こうが、自分の身の安全は自分で守るからいいって? まあ歩行者の通行方法だけならそれでもいいかもしれません。
でも、あなたの「右側通行オリエンテッド思考」は歩行者の通行方法だけですか? 生活のありとあらゆる場面に染み着いていませんか?

2011年5月18日水曜日

私が「デモ行進」に賛同できない理由

「脱原発」あるいは「反原発」などの気運が高まり、最近「デモ行進」が増えている。
しかし、私は昨今の「デモ行進」の増加にはあまり好意的ではない。それは、社会的影響力の乏しい自己満足型単独デモだからだ。
もちろん、参加者の中にはデモの持つ「変革の力」に本気で期待している人も大勢いる。でも、「デモ行進」というものは、単独では何も生み出せないのです。

それでは、「デモ行進」が効果をあげるにはどうすればよいか?
単純に図式化すれば、
(1)情報の民主化
  ↓
(2)議論の活性化
  ↓
(3)国会や地方議会での立法活動へ議員として参加する仲間を送り出す
  ↓
(4)仲間の議員の立法活動を支援する支持者数をアピールするデモンストレーションとして「デモ行進」を行う
ということになります。

「デモ行進」から順に遡って考えていきます。

(4) そもそも「デモ行進」が単独で盛り上がりを見せても、そこで唱えられている主張(ex.脱原発)は実現手段がないので実現できません。

(3) 主張を実現するには、国内的には国の法律や地方自治体の条例といった形で、国際的には条約や協定のような「ハード・ロー」あるいは将来に向けての行動計画や道筋を示した「ソフト・ロー文書」などを通じて、国家や一般市民に対して一定の拘束力ある文書でもって行動を促す必要があります。

ところがそのように主張を法律や条例、あるいは国際的合意事項とした形にするには国会議員や地方議会議員などになる必要がありますが、それにはやはり一定数以上の規模の「支持母体」を形成する必要があります。今現在の法制度のもとでは完全無所属の候補が選挙に出て勝って議員になることはほぼ不可能だからです。

(2) そのような支持母体を形成するには、同じような考え方や目標を持った同志を集めなければなりません。結果だけ求めて何を考えているかわからない人をただ無闇に大勢集めることもできないわけではありませんが、同じ考え方や目標を持った同志を結集するには、その前段階としてしっかりと成熟した「議論」を尽くす必要があります。

(1) では、そのような成熟した「議論」を尽くすにはどうしたらよいかというと、
(a) 判断基準としての情報の体系的蓄積・知識化
(b) 判断材料として最新情報の流通の自由化
の2つの「情報の民主化」が達成されていなければなりません。

つまり、結局のところ「情報の民主化」を基盤にした成熟した「議論」を通じて同じ考えと目標を持った人が集まり、国や地方自治体の立法に関与することがメインであって、「デモ行進」はそれらを実現する仲間を支援するためのデモンストレーションであるべきなのです。

ただなんとなく漫然と「デモ行進」をしていても仕方ないのです。

だいたい、博多どんたくのようにただぞろぞろとお題目を唱えて行進だけしたって、既存の政治家が動くわけはありません。
「不満のガス抜きをしてくれてありがとう」と思われるのが関の山です。

この「極めて当たり前のこと」が当たり前に行われていないことが問題なのですよ。

2011年5月14日土曜日

「情報の民主化」にこだわる背景

今ひとつ上手く推敲しきれていないのですが、いくらきちんと推敲を重ねた後であっても時宜を逸すれば意味のない文章となると思い、「情報の民主化」にまつまる私の思いをまとめた駄文を公開します。

*     *     *     *

実際上の問題としては必然性はないのですが、私には私にとって「情報の民主化」にこだわる背景というものがあります。

いい悪いは抜きにしても、日本国憲法体制を支える基本思想はやはり「近代立憲主義」です。20世紀には「近代立憲主義」も現代的な変容を遂げていて日本国憲法成立の1946年には「近代立憲主義」の新たな形である「現代立憲主義」となっており、日本国憲法も「現代立憲主義」に立脚しているとも言われますが、それでも日本国憲法の骨格は18世紀の「近代立憲主義」だと思います。

その「近代立憲主義」というものは、成立の担い手である市民(18世紀のフランス大革命で言う「第3身分」)が「情報主体性」を手に入れることで中世的束縛から逃れるところから始まった「個人(individual)」としての覚醒から生じたという経緯があるのです。
つまり、中世的な没個性的な「他者からの束縛」から逃れ、「個人(individual)」として自力で収集した情報やそれを体系化し蓄積した知識をもとに、自立的かつ自律的に判断する能力を持ったことが「近代立憲主義」のスタートであり、立憲民主主義の意義なのです。
昨今の日本人のように「空気」に支配されたりせず、自力で収集した情報やそれを体系化して知識として蓄積して物事の是非を判断する材料や基準として主体的に利用できる人間こそが「立憲民主主義の主体」なのです。

そんな近代立憲主義的発想に基礎を置く私としては、「自力で収集した情報を体系化して知識として蓄積する」ことが民主主義の基礎であると信じるところから、これを「情報の民主化」という名称で位置づけ重視するわけです。
だから情報の民主化」を軽視し、その重要性に着目しない昨今の日本のソーシャルメディア上やそれらを通じた様々な動きに不満を覚えるのです。

2011年5月4日水曜日

「情報の民主化」について

よく私が、
「日本は未だかつて民主化(民主主義政治)が達成されていない国だ」
と言うと、選挙制度などの“制度上の外形”だけを捉えた反論をしてくるヒトが少なからずいる。

私の Twitter での「情報の民主化」に関する主張に対する反応は、このような外形にとらわれ内実から目をそむけた反論の他はほとんど全くないが、私は国の民主化(民主主義政治)達成に必要なこととして、「治者と被治者の自同性」と「情報の民主化」の二つが重要だと常に考え主張している。

「治者と被治者の自同性」というのは憲法学における民主主義を表現する基本的な言葉なので、今回は詳しくは述べないが、要するに国民一人一人が「被治者」(法によって支配される者)であると同時に「治者」(法を生み出し法によって支配する者)でもある、ということだ。一方的に支配されるのではなく、国民一人一人が法や政治について自立的かつ自律的に考えることができるのが民主主義なのであって、形式的に普通選挙が導入されていても(「空気」などといった)何らかの他者(もしくは架空の存在)の意志に支配されているようであるならば「民主主義」とは言えないのだ。

そこで、国民一人一人が法や政治について自立的かつ自律的に考えるための基盤として、私の唱える「情報の民主化」が必要となる。

私が考える「情報の民主化」は、
(1) 判断基準としての情報の体系的整理・蓄積による知識化
(2) 判断材料としての情報流通の自由化
の2つから構成されます(どちらを欠いても民主化は達成できません)。

昨今は、主に記者クラブメディアと官僚との癒着による情報操作への懸念の高まりと個人レベルで容易に扱える情報手段の進歩改良とがあいまって、情報の発信に対する関心と情報発信の供給が高まっています。Twitterではいろんな立場や年齢の人が情報の小さな分散発信を行なっていますし、フリーランスのジャーナリストやそれを支援する人々によって様々な映像がUStreamで発信されています。

正しい判断を行なうためには(たとえそれが悲観的なものであっても)“判断材料”となる情報がその内容を歪めることなく正確に伝わらなければなりません。“判断材料”が誰かに操作された(かもしれない)情報だけだという状況ではとても危ういから、情報をいろんな立場や異なるバックボーンを持つ様々な人が誰でも流通させることができるようにしましょう、というのが「(2)情報流通の自由化」です。
ツールやそのツールの提供者の視点から見れば、TwitterやUStreamはこれ(=「情報流通の自由化」)を実現するためのプロトタイプです。 企業や政府から独立した“非営利民間組織”がソフトウェアから通信バックボーンまで含めて“TwitterやUStreamに相当するもの”を提供できる状態が理想形ですが、現状はまだそこまでは至っていません。

しかし、情報流通の量や質が向上しても、その信憑性を判断することができなかったり、そもそも何の話か理解できなければ“判断材料”として使えないので意味がありません。大量に流れてくる“判断材料”を活用できるようにするために、(今流れている物より以前の)既存の情報を整理し体系的に蓄積し、今後流通してくる情報を活用できるような基礎・基盤を作る、というのが「(1)情報の体系的整理・蓄積による知識化」です。

情報の蓄積と言うと、まず Wikipedia を思い出す人がいるかもしれませんが、Wikipedia は Wikiクローンというネットワーク・コラボレーションツールの利点を活かした、ある意味有益な情報蓄積ではありますが、そもそも百科事典という「情報の羅列には向いているが情報の体系化には不向きなツール」を電子化しただけのものです。

やはり、情報の体系化には、「学術体系書をコンピューターネットワーク上に再現したような新たなツール」が必要になるでしょう。ただし、一つのサーバーや一つのサーバーネットワークだけに存在するだけでもいけませんし、電子書籍のように一つだけがスタンドアローンに存在するだけでもダメです。個別の情報端末の中に情報体系の実体が存在すると同時にサーバーネットワークを介して共同作業者同士で常に協議しながらアップデートができるものでなければならないでしょう。既存のツールからイメージする説明をするとすれば、学術体系書の共同執筆用に改良を加えたEvernoteのようなものだと考えればわかりやすいでしょう。

以上のような意識とツールを兼ね備えた「情報の民主化」が実現し、国民一人一人が「自分たちは“法によって支配される者”であると同時に“法を生み出し法によって支配する者”でもあるのだ」という「治者と被治者の自同性」の意識を持つことによって、はじめて「民主主義政治」が名実ともに実現可能なスタートラインに立つことができるのです。

日本はまだそのスタートラインには立っていないのです。

いっしょにスタートラインを目指しませんか?
「(2)判断材料としての、情報流通の自由化」はUStreamというプロトタイプを使って大勢の人々がチャレンジを始めています。
「(1)判断基準としての、情報の体系的整理・蓄積による知識化」にもチャレンジしていきませんか?
私には基本的なアイデアがあるだけで何の実現手段も持ってはいませんが、誰か一人くらい共同作業を始めてくれる人がいるはずです。

2011年5月3日火曜日

Twitter「で」世の中が変えられるか?

「Twitter や Facebook 世の中が変えられる」なんて本気で考えている日本人がいたらよほど「おめでたい奴」だと思います。
ソーシャルネットワークメディアの力? 寝言は寝てから言いましょう。使う側に宗教上のヒューマンネットワークという“社会的バックボーン”があったからこそ中東・北アフリカではソーシャルネットワークメディアはそれを助成できた、というだけのことです。
たとえば「ムスリム同胞団」のような“社会的バックボーン”が既に存在していて、その高速連絡手段としてソーシャルネットワークメディアを使ったから彼らは成功したのです。

それでは日本の現状はどうなのか?

たとえば、反原発デモなどのデモ行進が時々起こりますが、たとえデモ行進の参加の呼びかけがソーシャルネットワークメディアを使って行われデモ行進が大規模になったとしても、中東・北アフリカのように世の中を変える力にはなり得ません。“博多どんたく”のような“お祭り騒ぎ”の域を超えられないのです。

「ムスリム同胞団」のような“社会的バックボーン”がない、今の日本では無理です。

問題は“社会的バックボーン”には限りませんし、世の中を変える原動力は何も“社会的バックボーン”には限りませんから。
むしろ“社会的バックボーン”急には形成できませんが、もう一つの問題点を克服することは(結束力の点では“社会的バックボーン”には敵いませんが)世の中を変える原動力の形成には一定の効果を生み出します。
それが「情報の民主化」です。

“ただソーシャルネットワークメディアを使っただけの烏合の衆による一時的なデモ行進”とは異なる潜在的な力を期待できる「情報の民主化」については稿を改めて述べたいと思います。

2011年5月2日月曜日

みんなあまり「構造」について考えない

再開1つめのテーマに「構造」を選んでみた。

すべての人がというわけではないが、物事を考えるときにその「全体構造」を考えない人が多い。

たとえば、私が Twitter を始めたときによく書いていた話題に「日米地位協定」というのがあるが、Twitter で見かける「日米地位協定」の話題は、普天間基地をはじめとした在沖縄米軍基地のことだったり、「思いやり予算」のことだったり、裁判管轄権のことだったりで、「日米地位協定」の全体構造や法的性格などから考え始めて個別の問題の位置づけに考えを及ぼしたり、他国の駐留米軍地位協定との比較といったアプローチが話題になることはほとんどないのだ。

「日米地位協定」は、正式名称「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」が示すように、

(1) 「日米安全保障条約」に基づく協定であり、
(2) その「日米安全保障条約」第6条に基づく在日米軍基地のための施設・区域を提供する協定であり、
(3) 提供した施設・区域を使用する米軍と米軍人の地位に関する協定

なのである。
この地位協定自体の三重構造をまったく理解していない人が多い。
さらに付け加えるならば、

(4) 地位協定自体が個別の事項に関しては別途の協定の締結を予定している

のであり、俗に言う「思いやり予算」の問題は、費用負担に関する地位協定24条に対する「特別協定」に基づくものなのであるが、これも理解していない人が多い。

また、「日米地位協定」と基地周辺住民との関係の法的構造も理解されていない。
「日米地位協定」それ自体は、日本国と米軍との間の法的関係しか規定しておらず、基地周辺住民との間は形式的には日本国政府との間の法的関係によるのです(一部、米軍と住民との間の直接の関係もあるが、地位協定外の関係である)。
こういった法的な三面関係をまったく理解しない論議ばかりが行われており、詰まるところ、法的関係の無理解は法的解決のアプローチ先の見誤りにつながっているのですが、それもまったく理解されていないのです。

「構造」という今回のテーマからだいぶ「日米地位協定」の話に踏み込んでしまいましたが、私は何事を考えるにも「当該テーマの全体構造をきちんと把握することがまず重要」だと考えています。
このことをみなさんにも理解していただきたいのです。

個別のテーマに関してはまたこのあとで。
今日はここまで。

2011年4月28日木曜日

ブログを再開してみた。

別のところ(Googleではないどこか)で少し前にブログはやっていたのですが、いろいろ変な絡み方をしてくる人が何人かいたので、しばらくやめていました。
せっかくGoogleアカウントもあることだし、Twitterがらみでいろいろ140文字超の主張もしてみたくなってきたので、ここに場所を移しての再開というわけです。

ひとまず、今日はこのへんで。