2011年5月18日水曜日

私が「デモ行進」に賛同できない理由

「脱原発」あるいは「反原発」などの気運が高まり、最近「デモ行進」が増えている。
しかし、私は昨今の「デモ行進」の増加にはあまり好意的ではない。それは、社会的影響力の乏しい自己満足型単独デモだからだ。
もちろん、参加者の中にはデモの持つ「変革の力」に本気で期待している人も大勢いる。でも、「デモ行進」というものは、単独では何も生み出せないのです。

それでは、「デモ行進」が効果をあげるにはどうすればよいか?
単純に図式化すれば、
(1)情報の民主化
  ↓
(2)議論の活性化
  ↓
(3)国会や地方議会での立法活動へ議員として参加する仲間を送り出す
  ↓
(4)仲間の議員の立法活動を支援する支持者数をアピールするデモンストレーションとして「デモ行進」を行う
ということになります。

「デモ行進」から順に遡って考えていきます。

(4) そもそも「デモ行進」が単独で盛り上がりを見せても、そこで唱えられている主張(ex.脱原発)は実現手段がないので実現できません。

(3) 主張を実現するには、国内的には国の法律や地方自治体の条例といった形で、国際的には条約や協定のような「ハード・ロー」あるいは将来に向けての行動計画や道筋を示した「ソフト・ロー文書」などを通じて、国家や一般市民に対して一定の拘束力ある文書でもって行動を促す必要があります。

ところがそのように主張を法律や条例、あるいは国際的合意事項とした形にするには国会議員や地方議会議員などになる必要がありますが、それにはやはり一定数以上の規模の「支持母体」を形成する必要があります。今現在の法制度のもとでは完全無所属の候補が選挙に出て勝って議員になることはほぼ不可能だからです。

(2) そのような支持母体を形成するには、同じような考え方や目標を持った同志を集めなければなりません。結果だけ求めて何を考えているかわからない人をただ無闇に大勢集めることもできないわけではありませんが、同じ考え方や目標を持った同志を結集するには、その前段階としてしっかりと成熟した「議論」を尽くす必要があります。

(1) では、そのような成熟した「議論」を尽くすにはどうしたらよいかというと、
(a) 判断基準としての情報の体系的蓄積・知識化
(b) 判断材料として最新情報の流通の自由化
の2つの「情報の民主化」が達成されていなければなりません。

つまり、結局のところ「情報の民主化」を基盤にした成熟した「議論」を通じて同じ考えと目標を持った人が集まり、国や地方自治体の立法に関与することがメインであって、「デモ行進」はそれらを実現する仲間を支援するためのデモンストレーションであるべきなのです。

ただなんとなく漫然と「デモ行進」をしていても仕方ないのです。

だいたい、博多どんたくのようにただぞろぞろとお題目を唱えて行進だけしたって、既存の政治家が動くわけはありません。
「不満のガス抜きをしてくれてありがとう」と思われるのが関の山です。

この「極めて当たり前のこと」が当たり前に行われていないことが問題なのですよ。

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