2011年5月14日土曜日

「情報の民主化」にこだわる背景

今ひとつ上手く推敲しきれていないのですが、いくらきちんと推敲を重ねた後であっても時宜を逸すれば意味のない文章となると思い、「情報の民主化」にまつまる私の思いをまとめた駄文を公開します。

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実際上の問題としては必然性はないのですが、私には私にとって「情報の民主化」にこだわる背景というものがあります。

いい悪いは抜きにしても、日本国憲法体制を支える基本思想はやはり「近代立憲主義」です。20世紀には「近代立憲主義」も現代的な変容を遂げていて日本国憲法成立の1946年には「近代立憲主義」の新たな形である「現代立憲主義」となっており、日本国憲法も「現代立憲主義」に立脚しているとも言われますが、それでも日本国憲法の骨格は18世紀の「近代立憲主義」だと思います。

その「近代立憲主義」というものは、成立の担い手である市民(18世紀のフランス大革命で言う「第3身分」)が「情報主体性」を手に入れることで中世的束縛から逃れるところから始まった「個人(individual)」としての覚醒から生じたという経緯があるのです。
つまり、中世的な没個性的な「他者からの束縛」から逃れ、「個人(individual)」として自力で収集した情報やそれを体系化し蓄積した知識をもとに、自立的かつ自律的に判断する能力を持ったことが「近代立憲主義」のスタートであり、立憲民主主義の意義なのです。
昨今の日本人のように「空気」に支配されたりせず、自力で収集した情報やそれを体系化して知識として蓄積して物事の是非を判断する材料や基準として主体的に利用できる人間こそが「立憲民主主義の主体」なのです。

そんな近代立憲主義的発想に基礎を置く私としては、「自力で収集した情報を体系化して知識として蓄積する」ことが民主主義の基礎であると信じるところから、これを「情報の民主化」という名称で位置づけ重視するわけです。
だから情報の民主化」を軽視し、その重要性に着目しない昨今の日本のソーシャルメディア上やそれらを通じた様々な動きに不満を覚えるのです。

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