2011年5月21日土曜日

「有名人の信用の連鎖」

「右側通行志向」は危険」に続いて、余談をさらにもう一つ。

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Twitterを始めてから1年半。つくづく「無名の一般人」にとってはTwitterそれ自体は何の役にも立たないという、きわめて当たり前とも言えることを思い知らされた。ネット上の文化人やマスコミにもてはやされた経歴を持った人々は Twitter 自体の効用をやたらと強調するようにも見えるが、どうやらそれは幻想らしい。それは、「無名の一般人」が“多くの日本人が関心が高いと言われているタイムリーな社会問題”についてツイートすることによって確かめられる。「無名の一般人」が真剣に論じてもほとんど相手にされはしないのだ。

どうやら日本人の志向から考えて、当の本人の「正しさ」よりも「有名人かどうか」というのが発言を信用する際の尺度として重要らしいということがわかる。その次は「自分が知っている有名人が信用しているかどうか」が重要らしい。以下、「有名人の信用の連鎖」に連なっているかどうかが決め手となる。
つまり、この「有名人の信用の連鎖」に連なっていさえすれば、どんないい加減な人間の言説であっても Twitter を媒介にしてあっという間に広まるが、「有名人の信用の連鎖」に連なっていない「無名の一般人」であればどれほど的確でわかりやすい説明によっても広まることはないのだ。まったくないとまでは言い切れないが、きわめて例外的なのだ。

つまり、「有名人の信用の連鎖」という観点で言えば、私自身は有名人じゃないし「有名人の信用の連鎖」にも連なっていないから、私の発言が広く信用されることは(絶対ではないが)まずないと言ってよいでしょう。私自身の信用の問題でもなく、私自身の説明や主張の巧拙の問題でもないのです。
「有名人の信用の連鎖」重視。それが一般的な日本人ってものなのですから。

ちなみに、私の大学の友人の親なんてテレビに出てない大学教授は大学教授として認めなかったらしい。
友人が尊敬するH教授を卒論の主査に決める前に、たまたま運よくその教授にクイズ番組出演の機会(完全に専門外のことについて「番組の頭脳」として簡単なコメントをするだけのご出演)があって助かったと友人は言っていた。
「へえ~っ。H教授って有名だったんだ」
と言われたそうな。

2011年5月19日木曜日

「右側通行志向」は危険

情報の民主化」に関連する余談を一つ。

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私が他人(ひと)の思考の志向性について推し量るのに使っている指標の一つに「歩行者の通行方法」がある。

困ったことに多くの人が「右側通行の原則」という嘘を鵜呑みにしているばかりか、その「右側通行幻想」すら“ご都合主義の勝手な解釈で都合のいいときだけ否定”している人があまりにも多いのだ。

世間の人が「右側通行幻想」のより所にしていると思われるのが、道路交通法第10条第1項本文だ。
何が書かれているかと言えば、要するに
「(1)歩道と車道の区別がない道路では、
(2)歩行者は右側端に
(3)寄って通行しなさい」
ということなのだ。
実際に条文を読んでいただければわかるとおり、実はこの条文には「右側通行」とも書いてないし、「原則」とも書いておらず、条文構成上も「原則」と解釈できる余地はないのだ。

上記の(1)から(3)にこの条文は分けられ細かい解釈が可能なのだが、もっと細かく言えばその前の0番めに、
「(0)自動車と歩行者との間の棲み分けルールとしては」
というのが入ると考えなければならない。
つまり、「右側通行幻想」を持っているヒトが暗に考えている「歩行者対歩行者のルール」というのは初めからこの道路交通法第10条には与えられていない役割なのだ。

だから、道路交通法第10条第1項が想定している「歩道と車道の区別がない道路」では、
(a)道路の真ん中には自動車が大きな顔をして悠々と通行していて、
(b)歩行者は、歩行者から見て道路の向かって右側の端(←「端」というのがポイント)に、自動車の通行から生じる危険を避けるように通行する。
という状況になるわけです。
「歩行者対歩行者」という対面はあり得ません。道路の真ん中にいる自動車に遮られて向こう側から歩いてくる歩行者はこちらからは見えないのですから。

これが道路交通法第10条第1項の規定する内容なのです。条文を理解するための最低限度の日本語読解力があれば簡単にわかることです。「右側通行の原則」だと誰が言おうとも、それが間違っていることは簡単にわかります。

ところが、多くのヒトが自分の目で条文を見て自分の頭で考えようとはしません。誰が言ったかはっきりしない「右側通行の原則」という幻想を完全に鵜呑みにしています。

私はこのような、「誰が言ったのかもはっきりしないようなことをただ漫然と鵜呑みにして信じ込む考え方」
「右側通行志向の思考」
と呼んでいます。
「志向」と「思考」が同音異義語の関係になっていて紛らわしいので、「志向」のほうを英語にして
「右側通行オリエンテッド思考」
とも呼んでいます。

この「右側通行オリエンテッド思考」は、はっきり言って為政者にとっては好都合です。何を言っても騙せます。増税も徴兵も原発推進も思いのままです。だって、誰も基本情報を読まず、誰が言ったかさえはっきりしないことを簡単に鵜呑みにしてくれるわけですから。

別に右を歩こうが左を歩こうが、自分の身の安全は自分で守るからいいって? まあ歩行者の通行方法だけならそれでもいいかもしれません。
でも、あなたの「右側通行オリエンテッド思考」は歩行者の通行方法だけですか? 生活のありとあらゆる場面に染み着いていませんか?

2011年5月18日水曜日

私が「デモ行進」に賛同できない理由

「脱原発」あるいは「反原発」などの気運が高まり、最近「デモ行進」が増えている。
しかし、私は昨今の「デモ行進」の増加にはあまり好意的ではない。それは、社会的影響力の乏しい自己満足型単独デモだからだ。
もちろん、参加者の中にはデモの持つ「変革の力」に本気で期待している人も大勢いる。でも、「デモ行進」というものは、単独では何も生み出せないのです。

それでは、「デモ行進」が効果をあげるにはどうすればよいか?
単純に図式化すれば、
(1)情報の民主化
  ↓
(2)議論の活性化
  ↓
(3)国会や地方議会での立法活動へ議員として参加する仲間を送り出す
  ↓
(4)仲間の議員の立法活動を支援する支持者数をアピールするデモンストレーションとして「デモ行進」を行う
ということになります。

「デモ行進」から順に遡って考えていきます。

(4) そもそも「デモ行進」が単独で盛り上がりを見せても、そこで唱えられている主張(ex.脱原発)は実現手段がないので実現できません。

(3) 主張を実現するには、国内的には国の法律や地方自治体の条例といった形で、国際的には条約や協定のような「ハード・ロー」あるいは将来に向けての行動計画や道筋を示した「ソフト・ロー文書」などを通じて、国家や一般市民に対して一定の拘束力ある文書でもって行動を促す必要があります。

ところがそのように主張を法律や条例、あるいは国際的合意事項とした形にするには国会議員や地方議会議員などになる必要がありますが、それにはやはり一定数以上の規模の「支持母体」を形成する必要があります。今現在の法制度のもとでは完全無所属の候補が選挙に出て勝って議員になることはほぼ不可能だからです。

(2) そのような支持母体を形成するには、同じような考え方や目標を持った同志を集めなければなりません。結果だけ求めて何を考えているかわからない人をただ無闇に大勢集めることもできないわけではありませんが、同じ考え方や目標を持った同志を結集するには、その前段階としてしっかりと成熟した「議論」を尽くす必要があります。

(1) では、そのような成熟した「議論」を尽くすにはどうしたらよいかというと、
(a) 判断基準としての情報の体系的蓄積・知識化
(b) 判断材料として最新情報の流通の自由化
の2つの「情報の民主化」が達成されていなければなりません。

つまり、結局のところ「情報の民主化」を基盤にした成熟した「議論」を通じて同じ考えと目標を持った人が集まり、国や地方自治体の立法に関与することがメインであって、「デモ行進」はそれらを実現する仲間を支援するためのデモンストレーションであるべきなのです。

ただなんとなく漫然と「デモ行進」をしていても仕方ないのです。

だいたい、博多どんたくのようにただぞろぞろとお題目を唱えて行進だけしたって、既存の政治家が動くわけはありません。
「不満のガス抜きをしてくれてありがとう」と思われるのが関の山です。

この「極めて当たり前のこと」が当たり前に行われていないことが問題なのですよ。