2011年5月4日水曜日

「情報の民主化」について

よく私が、
「日本は未だかつて民主化(民主主義政治)が達成されていない国だ」
と言うと、選挙制度などの“制度上の外形”だけを捉えた反論をしてくるヒトが少なからずいる。

私の Twitter での「情報の民主化」に関する主張に対する反応は、このような外形にとらわれ内実から目をそむけた反論の他はほとんど全くないが、私は国の民主化(民主主義政治)達成に必要なこととして、「治者と被治者の自同性」と「情報の民主化」の二つが重要だと常に考え主張している。

「治者と被治者の自同性」というのは憲法学における民主主義を表現する基本的な言葉なので、今回は詳しくは述べないが、要するに国民一人一人が「被治者」(法によって支配される者)であると同時に「治者」(法を生み出し法によって支配する者)でもある、ということだ。一方的に支配されるのではなく、国民一人一人が法や政治について自立的かつ自律的に考えることができるのが民主主義なのであって、形式的に普通選挙が導入されていても(「空気」などといった)何らかの他者(もしくは架空の存在)の意志に支配されているようであるならば「民主主義」とは言えないのだ。

そこで、国民一人一人が法や政治について自立的かつ自律的に考えるための基盤として、私の唱える「情報の民主化」が必要となる。

私が考える「情報の民主化」は、
(1) 判断基準としての情報の体系的整理・蓄積による知識化
(2) 判断材料としての情報流通の自由化
の2つから構成されます(どちらを欠いても民主化は達成できません)。

昨今は、主に記者クラブメディアと官僚との癒着による情報操作への懸念の高まりと個人レベルで容易に扱える情報手段の進歩改良とがあいまって、情報の発信に対する関心と情報発信の供給が高まっています。Twitterではいろんな立場や年齢の人が情報の小さな分散発信を行なっていますし、フリーランスのジャーナリストやそれを支援する人々によって様々な映像がUStreamで発信されています。

正しい判断を行なうためには(たとえそれが悲観的なものであっても)“判断材料”となる情報がその内容を歪めることなく正確に伝わらなければなりません。“判断材料”が誰かに操作された(かもしれない)情報だけだという状況ではとても危ういから、情報をいろんな立場や異なるバックボーンを持つ様々な人が誰でも流通させることができるようにしましょう、というのが「(2)情報流通の自由化」です。
ツールやそのツールの提供者の視点から見れば、TwitterやUStreamはこれ(=「情報流通の自由化」)を実現するためのプロトタイプです。 企業や政府から独立した“非営利民間組織”がソフトウェアから通信バックボーンまで含めて“TwitterやUStreamに相当するもの”を提供できる状態が理想形ですが、現状はまだそこまでは至っていません。

しかし、情報流通の量や質が向上しても、その信憑性を判断することができなかったり、そもそも何の話か理解できなければ“判断材料”として使えないので意味がありません。大量に流れてくる“判断材料”を活用できるようにするために、(今流れている物より以前の)既存の情報を整理し体系的に蓄積し、今後流通してくる情報を活用できるような基礎・基盤を作る、というのが「(1)情報の体系的整理・蓄積による知識化」です。

情報の蓄積と言うと、まず Wikipedia を思い出す人がいるかもしれませんが、Wikipedia は Wikiクローンというネットワーク・コラボレーションツールの利点を活かした、ある意味有益な情報蓄積ではありますが、そもそも百科事典という「情報の羅列には向いているが情報の体系化には不向きなツール」を電子化しただけのものです。

やはり、情報の体系化には、「学術体系書をコンピューターネットワーク上に再現したような新たなツール」が必要になるでしょう。ただし、一つのサーバーや一つのサーバーネットワークだけに存在するだけでもいけませんし、電子書籍のように一つだけがスタンドアローンに存在するだけでもダメです。個別の情報端末の中に情報体系の実体が存在すると同時にサーバーネットワークを介して共同作業者同士で常に協議しながらアップデートができるものでなければならないでしょう。既存のツールからイメージする説明をするとすれば、学術体系書の共同執筆用に改良を加えたEvernoteのようなものだと考えればわかりやすいでしょう。

以上のような意識とツールを兼ね備えた「情報の民主化」が実現し、国民一人一人が「自分たちは“法によって支配される者”であると同時に“法を生み出し法によって支配する者”でもあるのだ」という「治者と被治者の自同性」の意識を持つことによって、はじめて「民主主義政治」が名実ともに実現可能なスタートラインに立つことができるのです。

日本はまだそのスタートラインには立っていないのです。

いっしょにスタートラインを目指しませんか?
「(2)判断材料としての、情報流通の自由化」はUStreamというプロトタイプを使って大勢の人々がチャレンジを始めています。
「(1)判断基準としての、情報の体系的整理・蓄積による知識化」にもチャレンジしていきませんか?
私には基本的なアイデアがあるだけで何の実現手段も持ってはいませんが、誰か一人くらい共同作業を始めてくれる人がいるはずです。

2011年5月3日火曜日

Twitter「で」世の中が変えられるか?

「Twitter や Facebook 世の中が変えられる」なんて本気で考えている日本人がいたらよほど「おめでたい奴」だと思います。
ソーシャルネットワークメディアの力? 寝言は寝てから言いましょう。使う側に宗教上のヒューマンネットワークという“社会的バックボーン”があったからこそ中東・北アフリカではソーシャルネットワークメディアはそれを助成できた、というだけのことです。
たとえば「ムスリム同胞団」のような“社会的バックボーン”が既に存在していて、その高速連絡手段としてソーシャルネットワークメディアを使ったから彼らは成功したのです。

それでは日本の現状はどうなのか?

たとえば、反原発デモなどのデモ行進が時々起こりますが、たとえデモ行進の参加の呼びかけがソーシャルネットワークメディアを使って行われデモ行進が大規模になったとしても、中東・北アフリカのように世の中を変える力にはなり得ません。“博多どんたく”のような“お祭り騒ぎ”の域を超えられないのです。

「ムスリム同胞団」のような“社会的バックボーン”がない、今の日本では無理です。

問題は“社会的バックボーン”には限りませんし、世の中を変える原動力は何も“社会的バックボーン”には限りませんから。
むしろ“社会的バックボーン”急には形成できませんが、もう一つの問題点を克服することは(結束力の点では“社会的バックボーン”には敵いませんが)世の中を変える原動力の形成には一定の効果を生み出します。
それが「情報の民主化」です。

“ただソーシャルネットワークメディアを使っただけの烏合の衆による一時的なデモ行進”とは異なる潜在的な力を期待できる「情報の民主化」については稿を改めて述べたいと思います。

2011年5月2日月曜日

みんなあまり「構造」について考えない

再開1つめのテーマに「構造」を選んでみた。

すべての人がというわけではないが、物事を考えるときにその「全体構造」を考えない人が多い。

たとえば、私が Twitter を始めたときによく書いていた話題に「日米地位協定」というのがあるが、Twitter で見かける「日米地位協定」の話題は、普天間基地をはじめとした在沖縄米軍基地のことだったり、「思いやり予算」のことだったり、裁判管轄権のことだったりで、「日米地位協定」の全体構造や法的性格などから考え始めて個別の問題の位置づけに考えを及ぼしたり、他国の駐留米軍地位協定との比較といったアプローチが話題になることはほとんどないのだ。

「日米地位協定」は、正式名称「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」が示すように、

(1) 「日米安全保障条約」に基づく協定であり、
(2) その「日米安全保障条約」第6条に基づく在日米軍基地のための施設・区域を提供する協定であり、
(3) 提供した施設・区域を使用する米軍と米軍人の地位に関する協定

なのである。
この地位協定自体の三重構造をまったく理解していない人が多い。
さらに付け加えるならば、

(4) 地位協定自体が個別の事項に関しては別途の協定の締結を予定している

のであり、俗に言う「思いやり予算」の問題は、費用負担に関する地位協定24条に対する「特別協定」に基づくものなのであるが、これも理解していない人が多い。

また、「日米地位協定」と基地周辺住民との関係の法的構造も理解されていない。
「日米地位協定」それ自体は、日本国と米軍との間の法的関係しか規定しておらず、基地周辺住民との間は形式的には日本国政府との間の法的関係によるのです(一部、米軍と住民との間の直接の関係もあるが、地位協定外の関係である)。
こういった法的な三面関係をまったく理解しない論議ばかりが行われており、詰まるところ、法的関係の無理解は法的解決のアプローチ先の見誤りにつながっているのですが、それもまったく理解されていないのです。

「構造」という今回のテーマからだいぶ「日米地位協定」の話に踏み込んでしまいましたが、私は何事を考えるにも「当該テーマの全体構造をきちんと把握することがまず重要」だと考えています。
このことをみなさんにも理解していただきたいのです。

個別のテーマに関してはまたこのあとで。
今日はここまで。